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A. ランゲ&ゾーネのルーツは18世紀のザクセン王国まで遡ります。 ザクセンは昔から発明が盛んな国で、科学への取り組みや完璧主義を重んじてきました。
165年におよぶA.ランゲ&ゾーネの歴史が始まったのは、繁栄が続いていたザクセンの歴史に重大な転機が訪れた時代のことでした。島国イギリスとヨーロッパ大陸諸国との交易を禁じたナポレオンによる大陸封鎖令(1806-1812年)が、解除されたばかりの時期でした。数年にわたり停滞していた繊維製品が大量に流入してきたのです。
その結果ザクセンのエルツ山地では基幹産業だった繊維業が完全に崩壊し、人々は失業に陥ります。
貧困に窮するエルツ山地の人々を支援するために、アドルフ・ランゲは現地に時計産業を興すことをザクセン政府に提案しました。 1843年にザクセン政府に書状を送り、エルツ山地に独自の時計工房を立ち上げるという構想に対する支援を求めたのです。長い交渉の末にようやくザクセン王国内務省との間で成立し、アドルフ・ランゲは移り住み、1845年12月7日 懐中時計工房を創業致しました。当時、エルツ山地は荒れ果て、やっと通れるような道が1本しかない状態でした。 これがドイツ精密時計製造業の始まりです。
その後、時計作りというもの自体の抜本的な改革を行い、常に一定の高い品質と信頼性を備えた時計の製作に励みます。
彼の改革は技術的な面だけではなく、作業分担制を作り、それぞれの才能を伸ばし、各工程の作業精度を上げることによって工房で製作される懐中時計の精度向上につながったのです。 教えた弟子達の多くは工房を開いて独立していき、だんだん工房の数も増えそれに伴い雇用の数も増加し、町の姿が形成されました。
その後30年もの長きにわたり時計作りに情熱を注ぎ、1875年12月3日 60歳でこの世を去りました。長男のリヒャルト・ランゲは1868年、既に経営に参加しており、それをきっかけに社名をA.ランゲ&ゾーネに改称しました。
代々に渡り工房は引き継がれ、4代目のウォルター・ランゲも先代達と同じ道に進むことを決意しましたが、第2次世界大戦後、会社は国有化され、強制労働のためウラン鉱山へ送られることを知った彼は西ドイツへ脱出することになります。
1990年ベルリンの壁が崩壊し、ウォルター・ランゲは曾祖父アドルフ・ランゲがそうしたのと同じように、故郷の人々に将来の希望を与えようと即座にエルツ山地へ向かいランゲ一族の伝統を再び蘇らせようとしました。
アドルフ・ランゲが最初の工房を開いてからちょうど145年目にあたる1990年12月7日に新しい会社を設立し、A.ランゲ&ゾーネというブランドが再び蘇ったのです。
工房の歴史的な社屋
エルツ山地の山からグラスヒュッテの町がある谷を見下ろすと、その中央にA.ランゲ&ゾーネの工房の建物が見えます。 東西ドイツ統一の直後は、最高級クラスの腕時計を製作するのに適した工房のスペースを見つけるのは容易ではありませんでした。 A.ランゲ&ゾーネの昔の本社工房に戻ることが、すぐにはできなかったからです。 本社工房は1873年にアドルフ・ランゲによって建造され、1948年まではランゲ一族の住居兼仕事場でもありました。
創業者アドルフ・ランゲ(1815-1875)
自らの構想の実現に情熱を注ぎ、身を粉にして働き続けたアドルフ・ランゲは、1875年にわずか60歳でこの世を去ります。 その間に彼は、順調な成長を遂げる一流の企業を築き上げ、同時にグラスヒュッテの町にささやかながらも豊かな生活をもたらしました。時計師一族ランゲ家の四代目ウォルター・ランゲ(1924-2017)
第二次世界大戦が勃発から東ドイツ国家崩壊の後、一握りのスタッフと共に、復活後第一号となる腕時計コレクションの開発が始まりました。 新モデルは好評を集め、やがてグラスヒュッテの町は、着実にふたたびドイツ精密時計製作の中心地へと発展していったのです。TANAKAウォッチギャラリー 久屋大通店
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